三十四、カオヤイ山戦役
「タイの地元紙は紙面を大きくとって報道した。これは証拠である。タイのニュース業界が、孤軍のために発表してくれた公開の証拠である」

カオヤイ山はタイの心臓部に位置している。タイ共産党は、ここに二十余年の時間をかけて拠点を築き上げていた。ソ連製および、カ ンボジア、ラオスを経由して密輸されたアメリカ製の武器を使用し、野戦部隊二千名以上を擁する一大勢力は、また、勇猛な山岳部隊でもあった。さらに彼らは 民兵組織を持ち、十歳以上の児童から老年の男性女性など、みな隊伍に編入されていた。彼らは自らの学校、病院、小型の兵器工場、訓練キャンプと武器庫など とともに、一つの行政システムを維持していたのである。

陳茂修将軍と楊維綱将軍に率いられた五百人の孤軍は、チェンカンの飛行場から輸送機に搭乗して、一九八一年二月九日ピッサヌロー クに向かい、タイ軍の主力黒豹部隊と合流した。合流後、孤軍はまた屈辱を受けることになる。しっかりとした軍服を着こなし、精良な武器を持ち、意気も盛ん な黒豹部隊の前では、痩せこけた黄色い肌の孤軍のそのさまは、まるで漫画などで失笑を買う役回りの老弱な敗残兵のようであった。もちろん、黒豹部隊はその 様子を見て笑ったりはしない。彼らの高貴な素養がそうさせていたのであろう。しかし、実弾射撃訓練などの短期訓練が始まると、孤軍はまた見ていられないよ うな恥ずかしいさまを演じる。射撃場での黒豹部隊は、その射撃の腕はほとんど百発百中のように見えた。だが、孤軍はといえば、銃もろくに扱えない。銃の扱 いは簡単ではあるが、使えるようになったばかりの銃で射撃を行えば、その命中率は推して知るべきであろう。標的の一つ一つを見て、タイ軍将兵は首を振って 嘆息を漏らした。彼らが資料の中で見たバダンでの戦闘記録と、今眼の前に展開しているこの現実の差は、彼らを大いに失望させてしまったのであった。さらに あとになると、もうおしまいとしか言いようのない孤軍の末路に憐憫の情すら抱き初めて、顔色には、廃物のような彼らを、こうして徴用すべきではなかったと いう、後悔の表情すら浮かんでいた。

陳茂修将軍は彼自身が味わった羞恥を交えながら私に語った。

「私はタイ国軍の指揮官に言ったんですよ。我々は貧乏で衣服は襤褸切れのようです。日常的な弾薬不足のせいで日頃の訓練もままならず、射撃の腕もまずい。それから、銃器は新しく支給されたもので、まだ使いこなせていないのです。もうしばらくお時間をいただけないかと」

これこそが、孤軍末裔の情景なのであった。陳茂修将軍は孤軍の第一世代、楊維綱将軍は孤軍の新生世代である。大陸から逃れて来た 世代の孤軍ではない彼らにすれば、そのことで軽視される理由はどこにもないのだが、彼らは自分たちが情けなくなってしまった。「我々には跡継ぎがいないん です」陳茂修将軍は沈痛に言ったのだった。

総攻撃は一九八一年二月二十六日に開始された。当初、雷雨田将軍が予想したような情況は出来せず、五つのルートに分かれて進撃し ていたそれぞれの縦隊は、勝利を一つずつ重ねて前へ前へと挺進していった。だが数日後、カオヤイ山まであと十キロの距離まで挺進したとき、タイ共産党が洞 穴に隠していた五七式無反動砲、六○迫撃砲などを含む、大小の火器の網にがっちりと搦め捕られて身動きがとれなくなってしまった。陸上作戦の前におこなっ た爆撃が山の洞穴に与えた打撃は、実は取るに足りない小さなものだったのである。砲には砲でしか対抗できないのだが、黒豹部隊の砲車は山道を登れない。実 際のところ、こうした障害がなかったとしても、彼らがさらに上に向かって歩みを進めることは極めて難しいといわざるを得なかった。彼らの前には、無数の地 雷が身動きが取れなくなるほどべったりと貼り付いていたからである。

こうして十九日まで睨み合っていたが、最高統帥部はついに後備の孤軍を戦場に投入する命令を下した。第三軍と第五軍から臨時に徴用された雑種のような非正規部隊が 正面の強敵に敵うのか、最高統帥部も自信がなかったに違いないが、これは単に、タイ人の部隊だけが単独で失敗するのが困るというだけのことなのであった。 カオヤイ山は海抜一二九○メートル、別に高い山というほどの高さではないが、非常に切り立っているのであった。陳茂修将軍は、黒豹部隊は力攻めにしたせい で、かえって敵の罠にはまったと判断していた。孤軍がここで勝利を制するには、大きな迂回行動を取ることが必須である。だが、カオヤイ山を回り道するだけ で、十日の時間が消えてなくなった。三月六日まで、山々を切り分けながら、昼は隠れ、夜は移動の繰り返しであった。そうしてようやくカオヤイ山の後面にた どり着くと、兵を二手に分け、楊維綱将軍が一隊を率いて攻撃を開始した。敵が不意に現れても、もはや攻撃は避けられない。幸い、タイ共産党は兵力を山の前 方に集中して黒豹部隊に当たっていたため、すでに兵力の引き抜きが間に合わなかった。三月八日まで、一個の山、一個の建物と、しらみつぶしに攻撃していく こと三日間、苦戦を経て、やっと一二九○高地の敵陣地にたどり着いた。一方のタイ共産党側も死兵となって寸土を死守しようとしていた。この時の孤軍の情況 は、一歩進めば死に、一歩引いたら生存できないといったふうであった。中国の兵法にいう。二つの軍が横に逃げ道のない狭い道で衝突したら、勇猛な方が勝つ と。カービン銃を手にした楊維綱将軍は、上半身裸のまま、もっとも危険な場所に立ち続け、また、もっとも危険なトーチカに向けて突撃を繰り返していた。神 に感謝すべきであろうか。おかげで、彼は死ぬことはなかったが、もし彼が死んでいたら全軍の士気は崩壊して、わずかな時間にみな逃げ散ってしまっていただ ろう。タイ共産党が押さえているこの勢力範囲内で、兵士たちがばらばらに逃げれば、やがては一人、また一人と狩られてゆき、最後には全員が確実に全滅する ことを意味していた。

だが、三月八日、国際婦人デーのその晩、孤軍はついにタイ共産党最高司令部があるカオヤイ山を攻略した。山の下方で敵の増援を封鎖していた部隊は、途中、 囲みを破って突出してきた敵にぶつかって一時的に崩壊しかかったが、すぐにもう一つの山の頂上に逃げた。孤軍はそこで、カオエイ山と呼ばれるこの山の頂き は、タイ共産党にとっては、カオヤイ山頂と互いに補完的な陣地になっていることに身をもって気付いたのであった。

「これはつまり、彼らに時間を与えてはいけないということなのだ」陳茂修将軍は言った。「一旦、他の近くの山で陣容を立て直されると攻略が難しい」

孤軍は勝ちに乗じて追撃を加えていった。そして三月九日午後、タイ共産党が最後の一兵まで抵抗する中、孤軍はついに軍営に突入してタイ共産党を駆逐した。二十余日におよんだ戦闘はここに終結。こうしてタイ政府は失われた国土をすべて取り戻したのであった。

タイ最高統帥部は本件に深く感動し、孤軍がピッサヌロークから四機の輸送機に分乗してチェンライの飛行場に到着したとき、盛大な歓迎会を催した。○四指揮 部指揮官のポークマー将軍自らが主催した。以前、タイの地元紙は、孤軍の功績には一文字も触れなかった。バダンの戦闘にしても、人々の間では口づてで伝 わっただけであった。だが今回、タイの地元紙は紙面を大きく割いて、タイに対する孤軍の貢献を表彰し、国の背骨がぶった切られるという未曾有の危機からタ イを救った孤軍に感謝の意を表していたのであった。






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