(3)


 中国ビルマ国境。|漫路《マンルー》河が両国の境となっている。すでにほぼ全体の仲間たちを筏でビルマ側に渡らせて終えていた。そして、私と妻の順が回ってきたときは、もうほとんど最後の方の一団だった。
 河を渡ってから、さらに三、四華里ほど前に歩いたと思う。後ろで大きな火柱が上がった。後衛部隊がすべての筏を爆破したのだった。劉備が四川に入ったとき、桟道を焼き落としたというが、大体こんな感じではなかったか。
 これから、我々が立っているのは外国の土地、接触するのは外国人である。劉備は幾年かの苦労のあと陳倉に兵を出し、中原に入った。我々はいつになったら故郷に戻ることができるのだろうか。
 あとで、後衛の部隊の者が言っていた…。
「我々が筏を焼いているとき、原住民が何か言っていたが、まるで分からなかった。彼らは我々に泣きながらお願いしていたが、我々は焼きつづけた。我々は共産党に利用されるとわかっていて、筏を残していくわけにはいかない。彼らはすぐに追いついてくる」
 私はかつて、李國輝将軍と話したことがある。いつか我々が国土を回復したとき、きっと倍にして、こうした原住民たちの損失に報いなければなるまいなと。 しかし、今から十一年もの過去のことである(訳注、この小説は、共産中国成立後の十年ほど後の回想という体裁をとっている)。李國輝将軍は台湾にいて仕事 もないと聞く。私もいつ戦死するかしれない。おそらく誰も、我々の願いを叶えてくれないのであろう。

 孤軍が|三島《サンダオ》に到着したのは二日目の夜であった。「三島」、これは三つの島という意味ではない。密林の中に開けた平原で、山に囲まれた盆地 に、四、五千人の白夷(訳注、古典では、中国の南に居住する少数民族は九つある。白夷はそのうちの一つ。シャン系の民族と指している思われる)が暮らして いる。男たちは小さな髷を結っており、女たちは顔に花のような刺青をしている。かれらは熱烈に歓迎してくれる。
 そして、昨日も五、六百人の中国軍部隊がここを通過して行ったという。こちらから聞くまでもなく、彼らの方から言ってきた。
「帽子の上には紅い星が着いていたか?」
私は尋ねた。
「気が付かなかったです。でも、負傷兵の一部をこちらに預けて行ったので…」
 警戒は怠りなく続けている。家族たちはすべて、山の麓の岩陰に隠れるように伏せている。仲間が白夷人に案内されて、その負傷兵の軍籍を確認しに行く。雰 囲気は一時的に非常に緊張したが、幸いなことに、負傷兵は第二十六軍の兵士であることがすぐに分かり、別に何事もなかった。
 負傷兵たちは大粒の涙をこぼしながら、我々よりも凄惨な彼らの撤退の様子を語った。彼らは第二十六軍九十三師団と第二七八連隊の兵で、元江での壊滅のあ と、繰り返し敵の包囲を突破し、潜伏に潜伏を重ねつつ、西へ西へと手探りで撤退を続けた。途中、みながぞろぞろと集まってきて、いよいよ、部隊の収拾がつ かないことが分かってきたときには、一緒に脱出してきた上官たち、それも、師団長、副師団長、連隊長までもが、みな逃げた後だった。父親が困難にぶつかっ て自らの子供を置いて逃げるように、彼らは血を流しながら命令にしたがってきた部下を捨て、軽々と馬に乗って、さったと逃げたのであった。
「彼らはどこへ逃げたのか?」
「台湾です」
負傷兵は弱々しく答えた。
「あの人たちは血も涙もない」
「それで、いまは誰が君たちを率いているのだ?」
「副連隊長であります。|譚忠《タンチョン》副連隊長です」
「彼は逃げなかったのか。不器用な男だ」
私は悲痛にくれた。
「それで、譚副連隊長は部隊をどこに連れていくつもりだ?」
李國輝将軍が聞いた。
「タイ国であります。おそらく、駐タイ大使館を探しに行ったものと…」
 この一件が、我々と譚忠が協力する伏線となった。二日目早朝、李國輝将軍はさらに深くビルマへ分け入り、譚忠に追いつくことを命じた。

   二

 我々は譚忠を追う。タイに入らず、我々と協力して兵を整え、じゅうぶんに準備して、また本土に巻き返すことを説得するために。孤軍はもともと千余名しかいなかったが、途中死傷して、現在では千名にも満たない。我々は反共の武力を二倍にしたかった。
 この重大な決定のために、ある者が提議した。我々がもし譚忠を追わず、そのままタイに行かせてしまえば、彼はそのまま台湾に行ってしまうことになるだろ う。もし、我々が共産党軍との戦いを継続するなら、彼を引き止めて、譚忠副連隊長とよく訓練された五、六百の兵士を我々の列に迎えることは絶対に必要なこ とだ。
 その夜、三島では、みなさまざまな意見があった。一部の人間は、|葫盧《フールー》のように、むしろ、我々もタイに入ってそのまま台湾へ向かうというという主張もあった。
 彼らの意見とはすなわち、一言で言えば、こういうことだ。
「こんな劣悪な環境に置かれていれば、ただ消耗して死んでいくだけだ」
「行きましょう。台湾へ帰りましょう。人脈があれば、我々は階級も上がるし、お金にも困らない。もし我々がこのままここに留まれば、どぶに屍を晒し、草木 とともに朽ち果てる。勝ったところで何かいいことがありますか?我々には今までの悲惨な教訓が山ほどあるじゃないですか」

 だが、みなは留まる道を選ぶことになった。我々は誰かのために共産党に反対しているんじゃない。我々自身のためにそうしているのである。血の海に仇を求め、人間にとって許されざる専制魔王のごとき、悪しき伝統に対して反攻するのだ。
 ゆえに、我々は誰がいようといまいと戦う気であるし、誰のいかなる人生にも、古えの昔から、死なないなどということがあったか。戦場で戦死することは、 それはたしかに凄まじく苦しいことに違いない。しかし、台湾に戻って窓にもたれかかって歳老いて死んでいく生き方に、どんな栄誉があるというのだ。一つの 葬儀委員会が解散になるだけじゃないか。我々は自分の骸の上でシャンパンを飲む者がいても恐れるものではない。我々を嫌わず、我々を捨てず、ただそれだけ で十分満足である。

 しかし、事実はどうだろうか。
「昔日戯言身後事、而今都到眼前来(訳注、「以前は戯れ言に過ぎなかったことが、いまでは現実になっている」の意)」のとおりである。
 では、我々が置かれた現在はどんな状況か。我々がすぐにも欲しいのは、弾薬、医薬品、図書…。しかし、我々が得たものは何だったか、冷漠と何も問題を解 決できない不毛な会議だけだ。これは我々が後悔することではない。少なくとも私はいままでも後悔したことはない。一滴一滴の我らが血は、国家のために流さ れた。もし、なにがしかの感触があるとすれば、それは憤怒と憂鬱である。

 翌日、朝の早いうちに三島を離れる。三島の白夷人の孤軍に対する親切は忘れられない。もし彼らが、一切の物資を提供してくれなければ、あるいは我々に陽 関大道(訳注、広くてまっすぐに続く平坦な道の喩え)のごとき前途を保証してくれても、我々は三島で飢え死にしていたか、さもなくば途中で飢えて死んでし まうか、いずれにしての飢え死にであっただろう。彼らは我々によくしてくれた。おかげで、我々の仲間たちの背嚢は、むすび飯と湧水でいっぱいになった。ほ の暗い朝の光を浴びながら、我々はタイ国境へ向かって急ぎ進発した。








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