(13)


 台湾への撤退が正式に決まった。期日は民国四十二年十一月八日である。我々が三十八年に辺境地区に入ってから、ゆうに五年の歳月が流れていたのである。 高々と掲げられた青天白日旗に先導された孤軍は、一糸乱れぬ隊列を組んだまま、タチレク市街を通り抜け、国境の川を渡り、そのままメーサイに到着した。
 私と妻は撤退部隊の三番目の隊列とともにあって、私たちが撤退したころには、すでに四十三年三月になっていた。メーサイへ撤退するにあたり、家を去る前に、私はあらためて我が草屋を整理した。竹のテーブル、竹の床、竹の椅子、すべて綺麗に磨き上げた。
 そして、私たちが持っていける荷物をまとめた。だが、こんな荒涼とした土地に暮らしていた私たちには、とりたてて何があるというほどのこともない。た だ、子供たちが生前に着ていたわずかな衣服と、簡単なおもちゃだけであったが、妻にとっては捨てるのが忍びない様子だった。
 出発の朝、私たちは陽が昇る前に起きてきて、息子の墓の前で冥銭を焚いた。息子が埋葬されている丘には、他にも数え切れないほどの仲間たちとその家族た ちの墓がある。ここ数日、兵士あるいはその家族たちが、この地を去る日を前にして、今は亡き彼らの親族のために最後の冥銭を焚いていた。
 泣き声が方々から聞こえる。私は息子の小さな土饅頭にさらに土をかけて高くした。そして、その脇に看板を立てた。看板に中国語とビルマ語で書いた。
「ビルマ軍諸兄 この世には、父母なき者も、子女なき者もいません。この墓の中には、異域を彷徨って命果てた、一人の華人の子供が眠っています。どうか仏の心を持って、生ける者も死せる者も同様に扱い、この墓を壊すことなどありませぬよう、涙とともにお願いいたします」

 メーサイに着くと、今度は娘の墓に行って紙を焚いた。私たちは、朽ち果ててぼろぼろになった草屋の前にある、娘の墓の傍らに座り、私は首をがっくりと下げていた。妻は紙を焚きながら囁くように話していた。
「安岱。父さんと母さんが見えるかい。私たちは台湾へ行くことになったのよ。何年何月に戻れるかもわからない。よく気を付けるんだよ。お金はちゃんと貯め ておいて、大きくなったら節約しながら遣うのよ。お父さんもあなたのために何も焚いてあげられなくなるから。私たちを許してね。私たちの貧乏を許してね。 あなたとお兄ちゃんを途中で死なせてしまった。私はお兄ちゃんには言っておいたから。もう少し大きくなったらあなたを探してねって。わたしの娘よ、母さん の声が聞こえてる?」
 妻は二人の同行者に抱えられて、小さな小さな墓に最後の言葉を囁いた。メーサイの市区に戻ると、バスがエンジン音を上げて出発を待っている。国境の川に かかる橋には、中国(中華民国)、アメリカ、ビルマ、タイの四ヵ国の国旗が風を受けてたなびいていた。名前も国籍もわからないが、その姿から一目で高級官 僚とわかる人たちが、興味深く我々の憔悴しきった行列を注視していた。
 彼らはたぶん嬉しいだろう。いや、絶対に嬉しいはずだ。彼らは自分たちの任務をまっとうし、上級機関に恙なく引き継げたのだから。共産党軍やビルマ軍が千人、万人の死者を出しても解決しえなかった問題を、あっさりと解決できたのだから。
 四ヵ国会議のころの数カ月前後、私が毎日のように聞かされた言葉がある。「大局全体に気を配れ」だの、「お前が見ているのは、ほんの一部に過ぎない。私たちはすべてを見ているのだ」のような言葉だ。
 私はあらためて思う。この大きな時代のうねりのなかに漂う私たちの存在は、あまりにも小さすぎたのである。








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